
⑧墓地の楠:可愛川沿いの、塀に囲まれた墓地の中に立っています。チュッパ○ャップスに似てるな…と思いました。

⑨七尾中学校の楠:大正期から名を替え場所を替えてある、廿日市でも古い中学校です。校舎の位置は時と共に変わりましたが、昔から、この学校のシンボルとして、沢山の子供たちを見守ってきたんでしょうね。

⑩宮内天王社の巨樹群:この神社は、厳島神社との関りが深く、祀時には厳島神社の神主が来られるそうです。
ケンポナシ、ムクロジ、イヌマキ、エノキ、イチョウ、はどれも古く大きな樹ですが、すべて手植え。また、シイモチという貴重な木もあります。

⑪金剛寺のハゼ:段々畑の一番上にあるこの木には、以前、市内で最も古いキヅタが絡まっていました。しかし、台風のため枯れ、今はハゼだけになってしまいました。四季折々、緑に朱に色づき、とても美しいです。

⑫西向寺の松:この寺は、1625年、僧玄正が開基しました。松は「蓮華松」といわれ、樹齢300年を超えているそうです。境内いっぱいに伸ばした枝が見事です。

⑬地御前小学校の銀杏:校門の近くにあります。今では上の方が折れていますが、樹回りをみると、さぞ高い木だったんでしょう。

⑭地御前神社の楠:線路わきに、ひときわ大きく基部が三俣に別れた楠があります。歴史ある神社にふさわしい巨樹で、文句なし!カメラに入り切れないよ~~

⑮あじな桜:昔、ここには西国街道の山越えの近道があり、そこを通る人々の道教えと安全を見守ったといわれている「おしえ地蔵」が立っていました。40年ほど前、阿品台の廿日市ニュータウン造成に伴って調整池が作られ、お地蔵様がJR阿品駅から200㍍程の所へ移された時に、記念に枝垂れ桜が植えられました。今は枝桜ですが、春には美しい桜色に彩られ、地域の人々に愛されています。(クロ-バーの絨緞も素敵。春に行ってみたいです)

巨きな樹を、こんな小さな写真に閉じ込めて、なんだか申し訳ない感じです。
機会があったら、ぜひ行って&見て&触れて、その大きさや時間を、実感してくださいね。
(ここからの”MIYAJIMA VIEW”はお休みします。)
♫秋深し~~いや、すでに初冬ですか…木々の色が格段に変わり、散策もますます楽し❤ですね。
さて、昔、廿日市には都から津和野へ向かう、西国街道の山陽道が通っていました。道沿いには、古い町屋や寺社、街道を案内する街道松も植えられ、今でも樹齢数百年の木が、あちこちにあります。
今回は、その中から宮島街道沿いの15本を紹介します。何れ劣らぬ魅力的な巨木ですよ。

①街道松:西国街道の街道松。一里毎に一里塚が、3里ごとに街道松が植えられていました。この松は、江戸期(1633年)に広島藩により植えられ、ました。昭和40年代に3本残っていたうちの2本が枯れ、現在に至っています。(この道の数百㍍手前に一里塚の碑があります)

②中央市民センターの楠:(芸州廿日市御本陣旧跡)

③天満宮の楠:廿日市を一望できる天満宮は、1233年、厳島神社の神主として鎌倉幕府から任命された藤原親実が開きました。その裏手にあるこの楠は、樹齢推定300年以上、1991年の台風19号でいくつかは折れましたが、現在ある樹も圧巻です。

④蓮教寺のソテツ:元は、津和野藩の御船屋敷に植えられていた、由緒ある樹です。昭和60年に市天然記念物に指定されました。

⑤光明寺の松:1546年、鎮光坊円尊が、嫡子の早世に悲観して剃髪しこの寺が、開基されました。御本尊が火事にも焼失しなかったことから、光明寺と名付けられたそうです。天に向かって伸びる松は、さながら昇龍ですね。

⑥福佐売神社の銀杏:872年、安芸の国榎本連福佐売が表彰されたことを記念して建てられた神社です。無人社ですが、よく手入れされ、黄色く色づいた銀杏の木が印象的です。

⑦可愛川公園のポプラ:可愛川の土手には桜が植えられていて、こちらも、春桜の季節には、圧巻です。ひときわ高いポプラは、ランドマークになりそうで、朱い紅葉とのコントラストが美しい。

お昼休憩が終了し、いよいよ青海苔海岸へ向けて下山です。

青海苔川に沿って、下流へ向けて進みます。倒木、川越え、ぬかるみ、コシダの藪こぎと、またまたインディージヨーンズか!と思うほどの(なわけないが)行程です。全身の神経を研ぎ澄まし、一歩ずつ進みます。橋の名残の石積みや、こんなところに何故石垣?と思うような人工物を見ると、ホッとしましたね。

流れはだんだん大きくなり、川らしくなっていきました。ようやく青海苔浜へ到着。木の間から海が見えた時の達成感って、なかったです。「やったー!!」と、本当に嬉しかったです。青海苔神社で、しばし休憩し、お迎えの連絡船を待ちました。空は曇り気味で、少し肌寒かったんですが、悪路に汗ばんでいたので、ちょうど良かったです。

お迎えの船が来ました。白い龍の頭の付いた観光船です。これから、島の南側、七浦を巡って桟橋へ帰ります。(※正確には南側の5つの神社の沖を回ります)昭和30年代には、龍宮丸、乙姫丸という、船首に龍の頭のついた2隻の屋形船が、走っていたそうです。現在は引退して、倉橋島の早瀬大橋付近に、ひっそりと置かれているらしいです。
養父崎浦神社→山白浦神社と過ぎ、南端の革籠崎を周ります。向うに見えるのは可部島です。

須屋浦は広めの砂浜で、集まって楽しそうに海遊びしていました。10月下旬というのに、暖かいんですね。須屋浦神社→御床浦神社と周り、宮島桟橋へ。カキ筏まで、ほんの数メートル。手を伸ばしたら触れそうです。

ついに、遠くに宮島桟橋が見えてきました!多々良潟も見えてきました。今日は、あそこから出発したんだ…と、感無量。厳島神社を右手に見ながら、無事、桟橋に着きました。船内では、平清盛にゆかりの高倉院についてのお話がありました。不治の病のため、わずか約20歳の若さで亡くなった高倉院は、崩御される1年ほど前に宮島を訪れ、歓迎を受けたそうです。いつの時代も若者の死は、辛いものです。
今回、なかなか一人では訪ねることのできない宮島を、お話をうかがいながら歩きました。驚きや発見が沢山あり、本当に充実した1日でした。歴史の変遷がギュッと詰まった”宮島”、みなさんも機会があったら、歩いてみませんか?
次回は、見つけたキノコを紹介します。
10月23日、宮島観光協会主催の歴史探索講座に参加し、高安が原にある「陶晴賢敗死の碑」を訪ねました。~なかなか手強い道中でしたね。でも、ディープな宮島も、一味違っていいですよ。

午前9時30分、宮島桟橋に集合。船に乗って、海路、多々良潟へ向かいました。陶軍の逃亡経路をたどっていく形をとった行程ですね。先生の説明の声は聞きづらかったですが、潮風がと~っても気持ちいいです。ちょうどこの時間は、潮の具合で多々良潟の横に船がつけられ、砂浜から上陸しました。

舗装道路へ出ました。そのまま道なりに行くと、広島大学の植物実験所や室浜砲台跡があります。今日は、奥の院へ向かう多々良林道を歩き、先峠を越えて青海苔海岸へ抜ける”山道”へ入ります。
これがまた、しょっぱなから挑んできますね!”道”でなく、小川状態。先日の雨で、山水がちょろちょろと流れていました。~そういえば、みなさん歩き慣れたスタイルをしてらっしゃいましたね。

左は崖&急斜面&倒木と格闘し、やっと尾根へ出ました。ほっと一息。ここから左へ行けば奥の院、右は岩船山です。林の中、コシダのヤブコギを過ぎ、ぱっと視界が広がりました。海が見えます!(嬉)遠くに島も見えました。阿多田島でしょうか?広い空が見えると、なんだか安心しますね。(因みにケイタイは圏外だそうです)

尾根道沿いに、海軍省の標識がありました。戦時中、岩船山には砲台があり、この辺りも管轄下で、その名残だそうです。呉に軍港があったので、大野瀬戸の見張り怠らず…ということでしょうね。宮島って、結構、いつの時代でも戦いに関係していますね。厳島合戦の時も、海(=交通や経済)の要所だった宮島の覇権争いだったでしょう?
先峠から、「陶晴賢敗死の碑」のある高安が原へ、尾根の急斜面を下って行きました。これがまた、落ち葉で滑り、川を越え、道なき道を…

ついに、目的地へ到着しました。大きな石がゴロゴロした中に、碑は立っていました。大正10年に文学博士瀬川秀雄が、言い伝えからこの地を割り出したんだそうです。しかし、あるのは雑木と石、石、石…ハメられた感のある陶軍、厳島での戦いは、もう残党狩り状態だったそうです。色々と古に思いを馳せながら昼休憩しました。
「そんな死に方をしたら、落ち武者の幽霊が出るんじゃないですか?」と聞いてみました。「出たとしても、見る人がいないから、出ないでしょう」ということでした。(続く)

存光寺のお掃除をした後、今日は宮島まつりです。
お昼を食べに市民センターへ行きました。
12時前でしたが既にカレーの食券は売り切れで、
手焼きパン¥100×2 (ピロシキと栗入りのあんぱん)と
コーヒー¥100 をいただきました。食事用の和室でいただき、
出口でわたがし¥50 をたのみました。
なれないおじさんが?陶芸教室の先生にバトンタッチ、
かなり大きめのわたがしをいただきました。ラッキー!
食べ歩きしていたら・・・
(・・?子供が見てわたがし買いに行きました。
県立広島大学宮島学センターの公開講座
「嚴島神社に魅せられた平清盛の世界へ」行きました。
第1部は、厳島神社の巫女は、「内侍」についてのお話。
第2部は、国宝「平家納経」は、平清盛・頼盛兄弟が共同して作成したお話。
平頼盛は父忠盛の後妻池禅尼(藤原宗子)の嫡男で、15歳の年齢差があり、兄清盛に根強い対抗心を持ち兄弟仲は必ずしも良好でなかったそうです。ほとんど弟が書いたものらしいということを知りました。厳島神社神官さんとのかかわりなど興味深いお話を聞く事ができました。楽しかったです。
講座は130人の募集に対して大勢の応募があり250席はほとんど埋まっていました。応募多数の為テーブルを出さず椅子のみ並べてあり、抽選でキャンセル待ちもあったそうです。NHKの取材もこられていました。
http://www.miyajima.or.jp/new/?p=1060
(*^_^*) 帰りにポスター見つけました。
★宮島お砂焼まつり特別企画★
宮島七浦巡り 屋形船遊覧船(あなご飯弁当付き)
平成23年10月16日(日)定員50名
11時00分出港(宮島桟橋)~宮島1周(七浦巡り)
料金:前売り3000円(当日 3500円)
主催 大野町商工会青年部
秋祭りの楽しみといえば、夜神楽です。今回は、お馴染みの「恵比寿」や「八岐大蛇」等に加え、「もみじ狩り」が舞われました。心躍るリズムと切れのいい舞~最高です!!(写真は「もみじ狩り」)
さて今回は、廿日市の桂公園へ行きました。厳島神社神主家藤原家三代が居た桜尾城跡です。
戦に明け暮れていた14世紀(南北朝時代)頃から藤原氏がここ住み始めたそうです。
16世紀初頭、藤原興親が京都で病死したのをきっかけに、神主家と社家の争いが始まりました。
その中、従兄弟の友田興藤が、主人の大内氏に逆って桜尾城に入り、神主家を名乗りました。すぐに仲直りしたものの、1541年に切腹、藤原神主家は滅亡しました。
(写真:坂を上ると桂公園です。左右に桜々…、公園にも沢山の桜が植えられ、春は、素敵なお花見ポイントです。)
大内氏は、家臣陶氏の謀反により破れ、その陶氏もまた、毛利氏によって討ち取られ(厳島合戦)、1554年、毛利氏は桂元澄を桜尾城主としました。
(写真:広いグラウンドと遊具のある小さな公園。地域の憩いの場です)
桂元澄の後、毛利氏が城主となり、1587年には、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、九州へ向かうためここへ泊まったこともありました。
1588年、毛利氏は、広島市へ築城を始め、福島氏が跡を継ぎましたが、江戸期にはいり、廃城となりました。
(写真:公園内には、植樹記念碑や歌碑等、多数の石碑がありました。それぞれにいわれがあるんでしょうね。)
1912年、桂氏の末裔桂太郎が、城址を明治政府に寄贈し、桂公園となりました。買収坪単価は1円、土は埋め立てに使われたそうです。
(写真:片隅に大気観測施設がおかれています)
こんな小さな城が何故、覇権争いの的になったのか、今の私には疑問ですが、当時ここは海に突き出た岬にある城であり、厳島神社も近く、北側には、西国街道が通っていました。交通の要所であったことは確かでしょう。
今、ここには城を思い起こさせるものは何も残っていません。まさに「兵どもの夢の跡」ですかね。
(写真:一本残された街道松。城の北側上り口にあった小さな祠)
最後に、久し振りの”ここからのMIYAZIMA VIEW”です。ビルの間に、あ!見えた!!

(参考資料:『図説廿日市の歴史』廿日市市/編・発行 『廿日市の歴史探訪四』石田米孝/著;渓水社 城址碑)
05/14 メナモミ
05/09 ぽこぺん