ここは、今から455年前、毛利氏が陶軍に勝利した、いわば厳島合戦(翌年)の前哨戦のあった場所です。
地図で見る限り、そんなに遠くもないし、行ってみるか・・・と思い立ったのは、曇天の午後1時過ぎでした。
チャリ族の私は、軽~い気持ちで出掛けました。ま、雨コートくらいは持って行くか…
山陽自動車道の大きな高架に驚きつつ、まだ余裕です。この辺りから歩道の道幅が急に狭くなり、すぐ脇を大きな車でも、びゅんびゅん通り過ぎていきました。
”清流”御手洗川を左に見て、自転車を押して行きます。沢音が心地よいです。川沿いの緑に混じって、オニユリの朱がとても綺麗。お、バナナがなってる!ネムの実って、本当に豆なんだ!!(まだまだ余裕)
ようやく黒折バス停近くにある、折敷畑山登山口に到着。え!?「登山」と書いてあるではないですか。案内板には、登り約40分、下り約30分と書いてありました。
小雨もぱらつき始めましたが、ここまで来たら、そのまま帰るわけにも行きません。えい!と気合で登り始めました。
(ここでも)沢山のきのこと出会いながら、しとしと雨にコートの内も外も濡れながら、ひたすら登りました。横に小さくて綺麗な沢が流れていましたが、後で調べてみると、合戦の時、戦死者が山積みされた血で真っ赤に染まったため、地元の人も決して飲まないとか。
※キノコ特集第2弾「折敷畑山編」は、次回ご紹介いたします。
途中、大きくて何本にも幹の分かれた桜が、数本ありました。まるで、手を広げているようでした。
やっと到着。標柱は、木々に囲まれたほんの数メートル四方の空き地に、ぽつんと立てられていました。昔の人は、何でまた、こんな急斜面の森の中を駆け巡り、戦ったのでしょう。地元宮内の方々の作られた標識がなければ、きっとたどり着けなかったと思います。沢山の血が流れて、455年後の今、標柱を除いては、何の跡もありません。この山のすぐ下には団地があり、街のざわめきが、ひっきりなしに聞こえてきます。唯、この辺りの地名に、合戦を思わせるものが、沢山残っているということだけでしょうか。
下山した後、近くにある、「宮川甲斐守(大内・陶軍の武将) 腹切岩」へ行きました。
今回は、兵どもの夢の後巡りでした。あんなに雨に濡れたのに、下山してみると、自転車のシートは一つも濡れていませんでした。何かに駆られて出掛けた今回の散策、何とも言えない不思議な気持ちになりました。
では、最後に恒例「ここからのMIYAZIMA VIEW」です。木々の隙間からほんのちょっぴり見えました。当時はこんな雑木もなく、きっと思いを馳せながら望んだ事でしょう。