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小枝の錦★気になるお堂?の正体は

お堂がある
2011年12月10日 宮島で一番きれいな紅葉は水族館前でした。
ここには気になるお堂があるんです。お地蔵さんが祀られてるの?
(^O^)/ 宮島本で調べたら『石風呂跡』でした。
弥山で求聞持の修行をする者が嵐気に悩むのを救うために弘法大師が造った蒸風呂。綿入れの着物と膝掛けの衣(腰巻)をつけて架杖を持って腰かけていたようです。 眼病、頭痛が治るなどの効能があったようです。石風呂目当てに遠くから来る人が絶えなかったと宮島本には書かれていました。

江戸時代後期、多くの人々で賑わっていた厳島の石風呂について、
来島者は日に一二度石風呂に通いながら、厳島を満喫していたようです。
元宮島温泉の建物で、終戦まであったらしい。保田忠昌『石風呂入治記』より。
水族館前ハイキョのようです
紅葉1紅葉3
紅葉2
紅葉の下で鹿さんがスパークリング(角を合わせて勝負!)していました。

称名庵跡に行きました

宮島探訪2011年12月4日 神泉寺跡の帰り道、
出会った人と宮島探訪しました。
山辺の古径を歩いて称名庵跡に行きました。
昔は表参道商店街の海だった?
山辺の古径を多くの人が歩いていたようです。
山辺の古径を行く
現在は?老人クラブが管理しているらしい
北之神社
(^^)/ 称名庵跡
称名庵は光明院住職退職後の住まいでした。
光明院の15代和尚により約200年前に設立されたそうです。現在は廃寺です。弘化、嘉永の頃から尼寺となり平成6年まで守られてきたようです。大正15年に檀家により念仏塔が建立され薬師座が祀られているらしい。
 昔、病院がない時代に病気になった人はお薬師さんに治してもらおうとお参りに来られたのでしょうね。
お堂がありました
お堂には、目の不自由な方がおまいりしたところ目が開いたことから名づけられた
『開眼地蔵』が祀られているそうです。
誓真釣井

近くには・・・誓真さんの釣井があり
宮島に住んでいる多くの人が
今でも生活水として利用している
様子がうかがえました。

神泉寺跡へ行ってきました

2011年12月4日 誓真徳碑で出会った歴史マニアの方に神泉寺跡に
案内していただきました。この辺りは夕方になるとタヌキが出るところで、
鹿がたくさんいるところでもあります。
 神泉寺跡神泉寺跡2
景色:大聖院が見える
(^^)/ 神泉寺跡
壇ノ浦の合戦で入水した二位の尼(平清盛の妻)の亡骸が有の浦に流れ着き
尼を弔って創建された寺と言われています。阿弥陀堂を建てて尼の木像を祀った。
江戸時代には昼夜「刻」を報じていたところから『時寺』とも言われていました。
宮島の恩人誓真さんはここを拠点に修行をされていたそうです。
明治維新のあと廃寺となり尼の木像は民俗資料館で来年1月15日から公開予定。
大聖院多宝塔
景色2ハチ
神泉寺跡ー光明院へ
いろんな思いを寄せながらひと時を過ごしての帰り道。昔この辺りは~
私には広場に見えるけどマニアには、ここは何があったとか・・・思いが募る場所。
江戸時代からの変わらない石段を下り 光明院へと続く脇道を歩きました。

街道沿いの巨きな樹巡り②

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⑧墓地の楠:可愛川沿いの、塀に囲まれた墓地の中に立っています。チュッパ○ャップスに似てるな…と思いました。

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⑨七尾中学校の楠:大正期から名を替え場所を替えてある、廿日市でも古い中学校です。校舎の位置は時と共に変わりましたが、昔から、この学校のシンボルとして、沢山の子供たちを見守ってきたんでしょうね。

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⑩宮内天王社の巨樹群:この神社は、厳島神社との関りが深く、祀時には厳島神社の神主が来られるそうです。
ケンポナシ、ムクロジ、イヌマキ、エノキ、イチョウ、はどれも古く大きな樹ですが、すべて手植え。また、シイモチという貴重な木もあります。

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⑪金剛寺のハゼ:段々畑の一番上にあるこの木には、以前、市内で最も古いキヅタが絡まっていました。しかし、台風のため枯れ、今はハゼだけになってしまいました。四季折々、緑に朱に色づき、とても美しいです。

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⑫西向寺の松:この寺は、1625年、僧玄正が開基しました。松は「蓮華松」といわれ、樹齢300年を超えているそうです。境内いっぱいに伸ばした枝が見事です。

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⑬地御前小学校の銀杏:校門の近くにあります。今では上の方が折れていますが、樹回りをみると、さぞ高い木だったんでしょう。

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⑭地御前神社の楠:線路わきに、ひときわ大きく基部が三俣に別れた楠があります。歴史ある神社にふさわしい巨樹で、文句なし!カメラに入り切れないよ~~

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⑮あじな桜:昔、ここには西国街道の山越えの近道があり、そこを通る人々の道教えと安全を見守ったといわれている「おしえ地蔵」が立っていました。40年ほど前、阿品台の廿日市ニュータウン造成に伴って調整池が作られ、お地蔵様がJR阿品駅から200㍍程の所へ移された時に、記念に枝垂れ桜が植えられました。今は枝桜ですが、春には美しい桜色に彩られ、地域の人々に愛されています。(クロ-バーの絨緞も素敵。春に行ってみたいです)

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巨きな樹を、こんな小さな写真に閉じ込めて、なんだか申し訳ない感じです。
機会があったら、ぜひ行って&見て&触れて、その大きさや時間を、実感してくださいね。
(ここからの”MIYAJIMA VIEW”はお休みします。)

街道沿いの巨きな樹巡り①

♫秋深し~~いや、すでに初冬ですか…木々の色が格段に変わり、散策もますます楽し❤ですね。
 さて、昔、廿日市には都から津和野へ向かう、西国街道の山陽道が通っていました。道沿いには、古い町屋や寺社、街道を案内する街道松も植えられ、今でも樹齢数百年の木が、あちこちにあります。
今回は、その中から宮島街道沿いの15本を紹介します。何れ劣らぬ魅力的な巨木ですよ。

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①街道松:西国街道の街道松。一里毎に一里塚が、3里ごとに街道松が植えられていました。この松は、江戸期(1633年)に広島藩により植えられ、ました。昭和40年代に3本残っていたうちの2本が枯れ、現在に至っています。(この道の数百㍍手前に一里塚の碑があります)

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②中央市民センターの楠:(芸州廿日市御本陣旧跡)

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③天満宮の楠:廿日市を一望できる天満宮は、1233年、厳島神社の神主として鎌倉幕府から任命された藤原親実が開きました。その裏手にあるこの楠は、樹齢推定300年以上、1991年の台風19号でいくつかは折れましたが、現在ある樹も圧巻です。

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④蓮教寺のソテツ:元は、津和野藩の御船屋敷に植えられていた、由緒ある樹です。昭和60年に市天然記念物に指定されました。

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⑤光明寺の松:1546年、鎮光坊円尊が、嫡子の早世に悲観して剃髪しこの寺が、開基されました。御本尊が火事にも焼失しなかったことから、光明寺と名付けられたそうです。天に向かって伸びる松は、さながら昇龍ですね。

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⑥福佐売神社の銀杏:872年、安芸の国榎本連福佐売が表彰されたことを記念して建てられた神社です。無人社ですが、よく手入れされ、黄色く色づいた銀杏の木が印象的です。

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⑦可愛川公園のポプラ:可愛川の土手には桜が植えられていて、こちらも、春桜の季節には、圧巻です。ひときわ高いポプラは、ランドマークになりそうで、朱い紅葉とのコントラストが美しい。

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陶晴賢最後の地を訪ねる(厳島合戦歴史探索講座)Ⅱ

お昼休憩が終了し、いよいよ青海苔海岸へ向けて下山です。

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青海苔川に沿って、下流へ向けて進みます。倒木、川越え、ぬかるみ、コシダの藪こぎと、またまたインディージヨーンズか!と思うほどの(なわけないが)行程です。全身の神経を研ぎ澄まし、一歩ずつ進みます。橋の名残の石積みや、こんなところに何故石垣?と思うような人工物を見ると、ホッとしましたね。

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流れはだんだん大きくなり、川らしくなっていきました。ようやく青海苔浜へ到着。木の間から海が見えた時の達成感って、なかったです。「やったー!!」と、本当に嬉しかったです。青海苔神社で、しばし休憩し、お迎えの連絡船を待ちました。空は曇り気味で、少し肌寒かったんですが、悪路に汗ばんでいたので、ちょうど良かったです。

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お迎えの船が来ました。白い龍の頭の付いた観光船です。これから、島の南側、七浦を巡って桟橋へ帰ります。(※正確には南側の5つの神社の沖を回ります)昭和30年代には、龍宮丸、乙姫丸という、船首に龍の頭のついた2隻の屋形船が、走っていたそうです。現在は引退して、倉橋島の早瀬大橋付近に、ひっそりと置かれているらしいです。
養父崎浦神社→山白浦神社と過ぎ、南端の革籠崎を周ります。向うに見えるのは可部島です。

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須屋浦は広めの砂浜で、集まって楽しそうに海遊びしていました。10月下旬というのに、暖かいんですね。須屋浦神社→御床浦神社と周り、宮島桟橋へ。カキ筏まで、ほんの数メートル。手を伸ばしたら触れそうです。

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ついに、遠くに宮島桟橋が見えてきました!多々良潟も見えてきました。今日は、あそこから出発したんだ…と、感無量。厳島神社を右手に見ながら、無事、桟橋に着きました。船内では、平清盛にゆかりの高倉院についてのお話がありました。不治の病のため、わずか約20歳の若さで亡くなった高倉院は、崩御される1年ほど前に宮島を訪れ、歓迎を受けたそうです。いつの時代も若者の死は、辛いものです。

今回、なかなか一人では訪ねることのできない宮島を、お話をうかがいながら歩きました。驚きや発見が沢山あり、本当に充実した1日でした。歴史の変遷がギュッと詰まった”宮島”、みなさんも機会があったら、歩いてみませんか?
次回は、見つけたキノコを紹介します。

陶晴賢最後の地を訪ねる(厳島合戦歴史探索講座)Ⅰ

10月23日、宮島観光協会主催の歴史探索講座に参加し、高安が原にある「陶晴賢敗死の碑」を訪ねました。~なかなか手強い道中でしたね。でも、ディープな宮島も、一味違っていいですよ。

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午前9時30分、宮島桟橋に集合。船に乗って、海路、多々良潟へ向かいました。陶軍の逃亡経路をたどっていく形をとった行程ですね。先生の説明の声は聞きづらかったですが、潮風がと~っても気持ちいいです。ちょうどこの時間は、潮の具合で多々良潟の横に船がつけられ、砂浜から上陸しました。

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舗装道路へ出ました。そのまま道なりに行くと、広島大学の植物実験所や室浜砲台跡があります。今日は、奥の院へ向かう多々良林道を歩き、先峠を越えて青海苔海岸へ抜ける”山道”へ入ります。
これがまた、しょっぱなから挑んできますね!”道”でなく、小川状態。先日の雨で、山水がちょろちょろと流れていました。~そういえば、みなさん歩き慣れたスタイルをしてらっしゃいましたね。

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左は崖&急斜面&倒木と格闘し、やっと尾根へ出ました。ほっと一息。ここから左へ行けば奥の院、右は岩船山です。林の中、コシダのヤブコギを過ぎ、ぱっと視界が広がりました。海が見えます!(嬉)遠くに島も見えました。阿多田島でしょうか?広い空が見えると、なんだか安心しますね。(因みにケイタイは圏外だそうです)

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尾根道沿いに、海軍省の標識がありました。戦時中、岩船山には砲台があり、この辺りも管轄下で、その名残だそうです。呉に軍港があったので、大野瀬戸の見張り怠らず…ということでしょうね。宮島って、結構、いつの時代でも戦いに関係していますね。厳島合戦の時も、海(=交通や経済)の要所だった宮島の覇権争いだったでしょう?
先峠から、「陶晴賢敗死の碑」のある高安が原へ、尾根の急斜面を下って行きました。これがまた、落ち葉で滑り、川を越え、道なき道を…

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ついに、目的地へ到着しました。大きな石がゴロゴロした中に、碑は立っていました。大正10年に文学博士瀬川秀雄が、言い伝えからこの地を割り出したんだそうです。しかし、あるのは雑木と石、石、石…ハメられた感のある陶軍、厳島での戦いは、もう残党狩り状態だったそうです。色々と古に思いを馳せながら昼休憩しました。
「そんな死に方をしたら、落ち武者の幽霊が出るんじゃないですか?」と聞いてみました。「出たとしても、見る人がいないから、出ないでしょう」ということでした。(続く)

宮島まつりと公開講座

宮島市民センターまつり
存光寺のお掃除をした後、今日は宮島まつりです。
お昼を食べに市民センターへ行きました。

12時前でしたが既にカレーの食券は売り切れで、
手焼きパン¥100×2 (ピロシキと栗入りのあんぱん)と
コーヒー¥100 をいただきました。食事用の和室でいただき、
出口でわたがし¥50 をたのみました。
なれないおじさんが?陶芸教室の先生にバトンタッチ、
かなり大きめのわたがしをいただきました。ラッキー!
食べ歩きしていたら・・・
(・・?子供が見てわたがし買いに行きました。

県立広島大学宮島学センターの公開講座
「嚴島神社に魅せられた平清盛の世界へ」行きました。

第1部は、厳島神社の巫女は、「内侍」についてのお話。
第2部は、国宝「平家納経」は、平清盛・頼盛兄弟が共同して作成したお話。
平頼盛は父忠盛の後妻池禅尼(藤原宗子)の嫡男で、15歳の年齢差があり、兄清盛に根強い対抗心を持ち兄弟仲は必ずしも良好でなかったそうです。ほとんど弟が書いたものらしいということを知りました。厳島神社神官さんとのかかわりなど興味深いお話を聞く事ができました。楽しかったです。

 講座は130人の募集に対して大勢の応募があり250席はほとんど埋まっていました。応募多数の為テーブルを出さず椅子のみ並べてあり、抽選でキャンセル待ちもあったそうです。NHKの取材もこられていました。
http://www.miyajima.or.jp/new/?p=1060

(*^_^*) 帰りにポスター見つけました。
★宮島お砂焼まつり特別企画★
宮島七浦巡り 屋形船遊覧船(あなご飯弁当付き)
平成23年10月16日(日)定員50名
11時00分出港(宮島桟橋)~宮島1周(七浦巡り)
料金:前売り3000円(当日 3500円)
主催 大野町商工会青年部 

宮島歴史民俗資料館

宮島歴史民俗資料館に行ってきました。
宮島の歴史や文化に関わる資料、民俗文化財を見る事のできる文化施設です。
建物の正面玄関はとても風情があります。
ここはかつて江戸時代後期〜明治時代までお醤油の醸造を営み豪商といわれた旧江上家のお屋敷だとか。
立派な中庭があって池には鯉がおりました。
「江上家」の玄関からお邪魔する。そんな感覚で入りましたが、館内は思った以上に広く見応えがありました。
弥山七不思議の1つである弥山霊火堂の「消えずの火」の大釜が展示されています。
宮島の日常や祭りの事について知れて、おもしろいです。
版画や掛け軸、宮島細工の美術・工芸品もあり、宮島細工はとってもきれいでした。
昔の紙幣が展示されていたり、歴史の授業ででてきたような書や像の数々。
来年の大河ドラマの主役である平清盛像、妻の二位尼像も展示されていました。
模型や地図を見ると、いつも訪れている宮島は一部分なのだなと思いました。
おもしろいものがたくさん展示してあり、入ってみて良かったです。
厳島神社から水族館方面に歩いた方にあります。

桂公園(桜尾城跡)

神楽秋祭りの楽しみといえば、夜神楽です。今回は、お馴染みの「恵比寿」や「八岐大蛇」等に加え、「もみじ狩り」が舞われました。心躍るリズムと切れのいい舞~最高です!!(写真は「もみじ狩り」)

さて今回は、廿日市の桂公園へ行きました。厳島神社神主家藤原家三代が居た桜尾城跡です。
入口坂 戦に明け暮れていた14世紀(南北朝時代)頃から藤原氏がここ住み始めたそうです。
  16世紀初頭、藤原興親が京都で病死したのをきっかけに、神主家と社家の争いが始まりました。
 その中、従兄弟の友田興藤が、主人の大内氏に逆って桜尾城に入り、神主家を名乗りました。すぐに仲直りしたものの、1541年に切腹、藤原神主家は滅亡しました。

(写真:坂を上ると桂公園です。左右に桜々…、公園にも沢山の桜が植えられ、春は、素敵なお花見ポイントです。)

グラウンド 大内氏は、家臣陶氏の謀反により破れ、その陶氏もまた、毛利氏によって討ち取られ(厳島合戦)、1554年、毛利氏は桂元澄を桜尾城主としました。

(写真:広いグラウンドと遊具のある小さな公園。地域の憩いの場です)

 

碑桂元澄の後、毛利氏が城主となり、1587年には、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、九州へ向かうためここへ泊まったこともありました。
 1588年、毛利氏は、広島市へ築城を始め、福島氏が跡を継ぎましたが、江戸期にはいり、廃城となりました。

(写真:公園内には、植樹記念碑や歌碑等、多数の石碑がありました。それぞれにいわれがあるんでしょうね。)

大気観測 1912年、桂氏の末裔桂太郎が、城址を明治政府に寄贈し、桂公園となりました。買収坪単価は1円、土は埋め立てに使われたそうです。

(写真:片隅に大気観測施設がおかれています)

 

 

街道松 こんな小さな城が何故、覇権争いの的になったのか、今の私には疑問ですが、当時ここは海に突き出た岬にある城であり、厳島神社も近く、北側には、西国街道が通っていました。交通の要所であったことは確かでしょう。
 今、ここには城を思い起こさせるものは何も残っていません。まさに「兵どもの夢の跡」ですかね。
(写真:一本残された街道松。城の北側上り口にあった小さな祠)

最後に、久し振りの”ここからのMIYAZIMA VIEW”です。ビルの間に、あ!見えた!!

桂公園より

(参考資料:『図説廿日市の歴史』廿日市市/編・発行 『廿日市の歴史探訪四』石田米孝/著;渓水社 城址碑)

THE 鳥居

宮島といえば、あの大きな朱塗りの鳥居。同じ形の鳥居を、見つけました。

831e5a1a9e5b18be9b3a5e5b185 こちらは、広島市佐伯区海老山の下にある「塩屋神社」。ここは、海老塩浜の鎮守社で、厳島神社の末社として、五日市八幡神社のお旅所でもあります。お賽銭箱に、宮島同じ紋がありました。

 

 

831e5a1a9e5b18be4bb96e6aebf1この辺りが埋め立てられたのは、昭和30年頃。それまでは漁港があり塩田が広がっていたそうです。

左;摂殿「龍宮神社」 右;末社「湯蓋神社」 下;厳島神社そっくりの回廊
(参考:境内の看板)

 

 

831e5b08fe4b999e69690e5b3b6 こちらは、広島市西区井口明神にある「下乙斐島」。西部埋め立て第2公園の中に、小さな池があり、小島の前に朱塗りの小さな鳥居がありました。小島や池の周りの石にはカキが付き、侵食の跡も残っています。そう、海の名残ですね。

 

 efbc98efbc93efbc91e383a9e382a4e382aae383b3園内には、大きなライオンの像がありました。碑に添えられた「讃える言葉」には、この328haの埋立地が、昭和37年に地質調査が始まり、54年に完成。先祖伝来の漁業を放棄する不安と、地域の発展や未来を信じた人々の思いが、綴られていました。
 私は、ここに広く大きな街があることしか知りません。碑文を読んで、私たちに託されたものの大きさや重さを、改めて感じました。

 

 

 最初は、「あ!宮島と同じ鳥居だ」と軽い気持ちでしたが、それぞれの鳥居にまつわる歴史を知ると、広島の発展=埋め立ての歴史なんだなと感じました。
 では、今回の”ここからのMIYAZIMA VIEW”は、八幡川河口付近から、夕霞の宮島です。中央の黒いラインは、埋め立てのための堤防です。

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宮内天王社

「廿日市市 宮内」周辺は、宮内の名の通り、昔、厳島神社の社領で、天王社には、厳島神社から神主さんが来て、お祭を行っていたそうです。

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e5a4a9e78e8be79fb3境内にある石燈篭は、、今から300年ほど前に厳島神社から寄進されました。これは、地御前神社にもない、異例のことだそうです。

 

 

 

 

 

社紋も、同じ「三亀甲剣花菱」です。e5a4a9e78e8be7b48b
 明治以降は、地元の氏神様として大切にされていますが、その関係は、平成の今でも続いていて、社殿が壊れた時には、修復工事の応援を快く引き受けてくださったとか。

 

 

 

 

この天王社、元々は、もっと海沿いのJR串戸駅近くにありましたが、今から400年ほど前、津波により壊され、今の場所へ移りました。元あった場所には、「天王址」という立派な石碑が建てられています。

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 実を言うと、この石碑を探し出すのに、私的には大変苦労しました。地域の歴史をまとめた冊子による場所の記述が「広田神社の西50m」「串戸三丁目、JRと広電の間」という2件、そして、戦前の串戸一帯の地図。今と道も建物も違う(!)のです。そんなに広い範囲ではなかったので、細道という細道を隈なく歩き、やっと発見。アパート裏の小さな空き地に、草に埋まって静かに立っていました。
 見つけた時は、正直、嬉しかったです。ま、聞けばすぐ分かるのですが、「探す→自分が発見する」楽しみ…「アハ体験」ですかね。アジヲシメテシマイマシタ。

 また、天王社には、県内有数の巨木があります。イチョウやイヌマキ、ムクロジの実等は、実際に地域の人たちの役に立っていた事でしょう。
 巨木って、存在には圧倒されますし、絶対触りたくなるのが、不思議ですね。

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※「ここからのMIYAZIMA VIEW」は、お休みします。
 次回は、ついに宮島上陸?3つの弥山登山コースの完全制覇を目指して、宮島通いをしようと思います。
(参考資料;『宮内の歴史と文化』廿日市市宮内まちづくり委員会/編,『廿日市町史』廿日市町/編,天王社の教育委員会による看板)

折敷畑古戦場跡

ここは、今から455年前、毛利氏が陶軍に勝利した、いわば厳島合戦(翌年)の前哨戦のあった場所です。

17o-007e9ab98e69eb6地図で見る限り、そんなに遠くもないし、行ってみるか・・・と思い立ったのは、曇天の午後1時過ぎでした。

チャリ族の私は、軽~い気持ちで出掛けました。ま、雨コートくらいは持って行くか…

山陽自動車道の大きな高架に驚きつつ、まだ余裕です。この辺りから歩道の道幅が急に狭くなり、すぐ脇を大きな車でも、びゅんびゅん通り過ぎていきました。

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”清流”御手洗川を左に見て、自転車を押して行きます。沢音が心地よいです。川沿いの緑に混じって、オニユリの朱がとても綺麗。お、バナナがなってる!ネムの実って、本当に豆なんだ!!(まだまだ余裕)

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17o-016e585a5e3828ae58fa3ようやく黒折バス停近くにある、折敷畑山登山口に到着。え!?「登山」と書いてあるではないですか。案内板には、登り約40分、下り約30分と書いてありました。
小雨もぱらつき始めましたが、ここまで来たら、そのまま帰るわけにも行きません。えい!と気合で登り始めました。

(ここでも)沢山のきのこと出会いながら、しとしと雨にコートの内も外も濡れながら、ひたすら登りました。横に小さくて綺麗な沢が流れていましたが、後で調べてみると、合戦の時、戦死者が山積みされた血で真っ赤に染まったため、地元の人も決して飲まないとか。
※キノコ特集第2弾「折敷畑山編」は、次回ご紹介いたします。

17o-031e6a19c途中、大きくて何本にも幹の分かれた桜が、数本ありました。まるで、手を広げているようでした。

 

 

 

 

 

 

やっと到着。標柱は、木々に囲まれたほんの数メートル四方の空き地に、ぽつんと立てられていました。昔の人は、何でまた、こんな急斜面の森の中を駆け巡り、戦ったのでしょう。地元宮内の方々の作られた標識がなければ、きっとたどり着けなかったと思います。沢山の血が流れて、455年後の今、標柱を除いては、何の跡もありません。この山のすぐ下には団地があり、街のざわめきが、ひっきりなしに聞こえてきます。唯、この辺りの地名に、合戦を思わせるものが、沢山残っているということだけでしょうか。

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17o-085e381aeefbc92e5aeaee5b79d下山した後、近くにある、「宮川甲斐守(大内・陶軍の武将) 腹切岩」へ行きました。

 

 

 

 

 

今回は、兵どもの夢の後巡りでした。あんなに雨に濡れたのに、下山してみると、自転車のシートは一つも濡れていませんでした。何かに駆られて出掛けた今回の散策、何とも言えない不思議な気持ちになりました。

では、最後に恒例「ここからのMIYAZIMA VIEW」です。木々の隙間からほんのちょっぴり見えました。当時はこんな雑木もなく、きっと思いを馳せながら望んだ事でしょう。

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宮島見てみて!

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