10月23日、宮島観光協会主催の歴史探索講座に参加し、高安が原にある「陶晴賢敗死の碑」を訪ねました。~なかなか手強い道中でしたね。でも、ディープな宮島も、一味違っていいですよ。
午前9時30分、宮島桟橋に集合。船に乗って、海路、多々良潟へ向かいました。陶軍の逃亡経路をたどっていく形をとった行程ですね。先生の説明の声は聞きづらかったですが、潮風がと~っても気持ちいいです。ちょうどこの時間は、潮の具合で多々良潟の横に船がつけられ、砂浜から上陸しました。
舗装道路へ出ました。そのまま道なりに行くと、広島大学の植物実験所や室浜砲台跡があります。今日は、奥の院へ向かう多々良林道を歩き、先峠を越えて青海苔海岸へ抜ける”山道”へ入ります。
これがまた、しょっぱなから挑んできますね!”道”でなく、小川状態。先日の雨で、山水がちょろちょろと流れていました。~そういえば、みなさん歩き慣れたスタイルをしてらっしゃいましたね。
左は崖&急斜面&倒木と格闘し、やっと尾根へ出ました。ほっと一息。ここから左へ行けば奥の院、右は岩船山です。林の中、コシダのヤブコギを過ぎ、ぱっと視界が広がりました。海が見えます!(嬉)遠くに島も見えました。阿多田島でしょうか?広い空が見えると、なんだか安心しますね。(因みにケイタイは圏外だそうです)
尾根道沿いに、海軍省の標識がありました。戦時中、岩船山には砲台があり、この辺りも管轄下で、その名残だそうです。呉に軍港があったので、大野瀬戸の見張り怠らず…ということでしょうね。宮島って、結構、いつの時代でも戦いに関係していますね。厳島合戦の時も、海(=交通や経済)の要所だった宮島の覇権争いだったでしょう?
先峠から、「陶晴賢敗死の碑」のある高安が原へ、尾根の急斜面を下って行きました。これがまた、落ち葉で滑り、川を越え、道なき道を…
ついに、目的地へ到着しました。大きな石がゴロゴロした中に、碑は立っていました。大正10年に文学博士瀬川秀雄が、言い伝えからこの地を割り出したんだそうです。しかし、あるのは雑木と石、石、石…ハメられた感のある陶軍、厳島での戦いは、もう残党狩り状態だったそうです。色々と古に思いを馳せながら昼休憩しました。
「そんな死に方をしたら、落ち武者の幽霊が出るんじゃないですか?」と聞いてみました。「出たとしても、見る人がいないから、出ないでしょう」ということでした。(続く)