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THE 鳥居

宮島といえば、あの大きな朱塗りの鳥居。同じ形の鳥居を、見つけました。

831e5a1a9e5b18be9b3a5e5b185 こちらは、広島市佐伯区海老山の下にある「塩屋神社」。ここは、海老塩浜の鎮守社で、厳島神社の末社として、五日市八幡神社のお旅所でもあります。お賽銭箱に、宮島同じ紋がありました。

 

 

831e5a1a9e5b18be4bb96e6aebf1この辺りが埋め立てられたのは、昭和30年頃。それまでは漁港があり塩田が広がっていたそうです。

左;摂殿「龍宮神社」 右;末社「湯蓋神社」 下;厳島神社そっくりの回廊
(参考:境内の看板)

 

 

831e5b08fe4b999e69690e5b3b6 こちらは、広島市西区井口明神にある「下乙斐島」。西部埋め立て第2公園の中に、小さな池があり、小島の前に朱塗りの小さな鳥居がありました。小島や池の周りの石にはカキが付き、侵食の跡も残っています。そう、海の名残ですね。

 

 efbc98efbc93efbc91e383a9e382a4e382aae383b3園内には、大きなライオンの像がありました。碑に添えられた「讃える言葉」には、この328haの埋立地が、昭和37年に地質調査が始まり、54年に完成。先祖伝来の漁業を放棄する不安と、地域の発展や未来を信じた人々の思いが、綴られていました。
 私は、ここに広く大きな街があることしか知りません。碑文を読んで、私たちに託されたものの大きさや重さを、改めて感じました。

 

 

 最初は、「あ!宮島と同じ鳥居だ」と軽い気持ちでしたが、それぞれの鳥居にまつわる歴史を知ると、広島の発展=埋め立ての歴史なんだなと感じました。
 では、今回の”ここからのMIYAZIMA VIEW”は、八幡川河口付近から、夕霞の宮島です。中央の黒いラインは、埋め立てのための堤防です。

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宮内天王社

「廿日市市 宮内」周辺は、宮内の名の通り、昔、厳島神社の社領で、天王社には、厳島神社から神主さんが来て、お祭を行っていたそうです。

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e5a4a9e78e8be79fb3境内にある石燈篭は、、今から300年ほど前に厳島神社から寄進されました。これは、地御前神社にもない、異例のことだそうです。

 

 

 

 

 

社紋も、同じ「三亀甲剣花菱」です。e5a4a9e78e8be7b48b
 明治以降は、地元の氏神様として大切にされていますが、その関係は、平成の今でも続いていて、社殿が壊れた時には、修復工事の応援を快く引き受けてくださったとか。

 

 

 

 

この天王社、元々は、もっと海沿いのJR串戸駅近くにありましたが、今から400年ほど前、津波により壊され、今の場所へ移りました。元あった場所には、「天王址」という立派な石碑が建てられています。

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 実を言うと、この石碑を探し出すのに、私的には大変苦労しました。地域の歴史をまとめた冊子による場所の記述が「広田神社の西50m」「串戸三丁目、JRと広電の間」という2件、そして、戦前の串戸一帯の地図。今と道も建物も違う(!)のです。そんなに広い範囲ではなかったので、細道という細道を隈なく歩き、やっと発見。アパート裏の小さな空き地に、草に埋まって静かに立っていました。
 見つけた時は、正直、嬉しかったです。ま、聞けばすぐ分かるのですが、「探す→自分が発見する」楽しみ…「アハ体験」ですかね。アジヲシメテシマイマシタ。

 また、天王社には、県内有数の巨木があります。イチョウやイヌマキ、ムクロジの実等は、実際に地域の人たちの役に立っていた事でしょう。
 巨木って、存在には圧倒されますし、絶対触りたくなるのが、不思議ですね。

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※「ここからのMIYAZIMA VIEW」は、お休みします。
 次回は、ついに宮島上陸?3つの弥山登山コースの完全制覇を目指して、宮島通いをしようと思います。
(参考資料;『宮内の歴史と文化』廿日市市宮内まちづくり委員会/編,『廿日市町史』廿日市町/編,天王社の教育委員会による看板)

折敷畑古戦場跡

ここは、今から455年前、毛利氏が陶軍に勝利した、いわば厳島合戦(翌年)の前哨戦のあった場所です。

17o-007e9ab98e69eb6地図で見る限り、そんなに遠くもないし、行ってみるか・・・と思い立ったのは、曇天の午後1時過ぎでした。

チャリ族の私は、軽~い気持ちで出掛けました。ま、雨コートくらいは持って行くか…

山陽自動車道の大きな高架に驚きつつ、まだ余裕です。この辺りから歩道の道幅が急に狭くなり、すぐ脇を大きな車でも、びゅんびゅん通り過ぎていきました。

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”清流”御手洗川を左に見て、自転車を押して行きます。沢音が心地よいです。川沿いの緑に混じって、オニユリの朱がとても綺麗。お、バナナがなってる!ネムの実って、本当に豆なんだ!!(まだまだ余裕)

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17o-016e585a5e3828ae58fa3ようやく黒折バス停近くにある、折敷畑山登山口に到着。え!?「登山」と書いてあるではないですか。案内板には、登り約40分、下り約30分と書いてありました。
小雨もぱらつき始めましたが、ここまで来たら、そのまま帰るわけにも行きません。えい!と気合で登り始めました。

(ここでも)沢山のきのこと出会いながら、しとしと雨にコートの内も外も濡れながら、ひたすら登りました。横に小さくて綺麗な沢が流れていましたが、後で調べてみると、合戦の時、戦死者が山積みされた血で真っ赤に染まったため、地元の人も決して飲まないとか。
※キノコ特集第2弾「折敷畑山編」は、次回ご紹介いたします。

17o-031e6a19c途中、大きくて何本にも幹の分かれた桜が、数本ありました。まるで、手を広げているようでした。

 

 

 

 

 

 

やっと到着。標柱は、木々に囲まれたほんの数メートル四方の空き地に、ぽつんと立てられていました。昔の人は、何でまた、こんな急斜面の森の中を駆け巡り、戦ったのでしょう。地元宮内の方々の作られた標識がなければ、きっとたどり着けなかったと思います。沢山の血が流れて、455年後の今、標柱を除いては、何の跡もありません。この山のすぐ下には団地があり、街のざわめきが、ひっきりなしに聞こえてきます。唯、この辺りの地名に、合戦を思わせるものが、沢山残っているということだけでしょうか。

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17o-085e381aeefbc92e5aeaee5b79d下山した後、近くにある、「宮川甲斐守(大内・陶軍の武将) 腹切岩」へ行きました。

 

 

 

 

 

今回は、兵どもの夢の後巡りでした。あんなに雨に濡れたのに、下山してみると、自転車のシートは一つも濡れていませんでした。何かに駆られて出掛けた今回の散策、何とも言えない不思議な気持ちになりました。

では、最後に恒例「ここからのMIYAZIMA VIEW」です。木々の隙間からほんのちょっぴり見えました。当時はこんな雑木もなく、きっと思いを馳せながら望んだ事でしょう。

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宮島見てみて!

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